秋田米を全国へ「一乃穂」は秋田米で作った秋田しとぎ菓子をお届けしています

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  No.211(2010年12月1日)

 10月26・27日の両日、社団法人表千家同門会第65回全国大会が秋田市で開催され、北海道〜沖縄まで、20代〜90代の女性1,000名と数名の男性が参加しました。
 表千家は、茶道を大成させた千利休(1522〜1591)を祖とし、侘び茶の古格を400余年にわたり今日まで伝え、現在の而妙斎千宗左宗匠は14代目のお家元になります。
 秋田地区での茶席は、1349年建立といわれる秋田最古の曹洞宗禅寺の名刹・補陀寺に家元席が設えられました。季節の花また、支部席は東北の名園・千秋公園内に鎮座する弥高神社、江戸末期の豪農屋敷である国指定重要文化財の三浦館(みうらのやかた)、そして由利本荘市の亀田城に設けられました。一方、県南地区の茶席は角館町に設けられました。角館は、江戸時代から続く重厚な佇まいの武家屋敷の町並みが今なお遺っており、「みちのくの小京都」と呼ばれています。韓国テレビドラマ「アイリス」の舞台となった雲厳寺(うんがんじ)・角館を開いたとされる芦名家の菩提寺である天寧寺(てんねんじ)が濃茶席・薄茶席になりました。
 今回の全国大会では、茶道の先生のご参加が多く、感心したことが随所にありました。それは、両日とも天候にはあまり恵まれませんでしたが、皆さんしっかりと雨天対策をして来られたこと、天候に対するご不満をあまりもっておられないことでした。そのせいか、式典前に竿燈やなまはげでお迎えする頃には、ぴたりと雨が止み、演技を楽しまれていました。何よりも余裕をもって行動されていたことは、さすが茶道の先生方と思いました。そして、人生において何事も余裕を持つことが大事と教えられました。また、当店の粢菓子も多くの会員の方々にご利用いただき、「美味しかった」とのアンケート葉書も届いており、大変うれしく思っております。
 本年も残すところわずかとなりました。どうぞ良いお年をお迎え下さい。
  No.210(2010年11月1日)

 東京都東村山市といえば、志村けんの歌で有名ですが、市の東北端に国立ハンセン病資料館と国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)があります。
 先月ハンセン病資料館を見学する機会に恵まれました。ハンセン病は、「らい菌」に感染することで起きる病氣で、感染すると手足などの末梢神経が麻痺したり、皮膚にさまざまな病変が起こります。かつては、「らい病」と呼ばれていましたが、明治6年(1873年)に「らい菌」を発見したノルウェーの医師・ハンセン氏の名前をとって、現在は「ハンセン病」と呼ばれています。「らい菌」は、11月の花感染力が弱く非常にうつりにくく、早期に発見し適切な治療を行うことにより、後遺症を残すことなく治る病氣です。現在の日本の衛生状態や医療状況、生活環境を考えると感染してもハンセン病になることはほとんどないと言われています。ちなみに、罹患者は2007年1人、2008年3人、2009年0人です。
 昭和8年(1943年)米国で「プロミン」という薬が良く効くことが報告されましたが、日本で本格的に使用されたのは昭和24年からでした。さらに、ハンセン病に対する誤った認識のために、平成8年(1996年)らい予防法が廃止されるまでの53年間にわたり、強制的に患者を隔離し、その家族も含め、偏見や差別の対象として多くの人々を苦しめた施策が行われ続けました。
 昨年の一乃穂通信にも掲載しましたが、秋田県のマークは、ハンセン病患者として隔離生活を余儀なくされた方の作品です。資料館を見学し、20世紀におけるわが国の悲劇と言われる所以を改めて痛切に感じました。
  No.209(2010年10月1日)

 異常に暑かった夏もやっと終わり、秋の氣配が一挙に濃厚になって来ました。さて、皆さんは八木重吉という詩人をご存知でしょうか。1929年10月26日わずか29歳の若さで亡くなった詩人です。
 現在の東京都町田市に生まれ、神奈川県師範学校(現横浜国立大学)を経て、1921年に東京高等師範学校の英語科を卒業し、半年間英語の教員を務めました。神奈川県師範学校在学時より教会に通い出し、1919年には洗礼を受けました。1921年に将来の妻となる島田とみと出会い、この頃より短歌や詩を書き始め、翌年結婚した後は精力的に詩作づくりに打ち込みました。特に1923年1月から6月までにかけては自作の詩集を10数冊編むほどの多作ぶりでした。1925年には、刊行詩集としては初となる『秋の瞳』が出来ましたが、10月の花結核と診断されてしまいます。茅ヶ崎で療養生活を送り、病臥の中で第2詩集『貧しき信徒』を制作したものの、完成を見ずに亡くなりました。
 5年間の短い詩作生活ではありましたが、書かれた詩篇は、2,000を優に超えています。短い詩が多いのが特徴で、103篇をおさめた『貧しき信徒』には10行を超えるものは2つしかありません。
 戦後になってその評価が高まり、1984年には故郷の町田市に八木重吉記念館が開設されました。先月亡くなった母も「ねがい」という詩が好きで、扁額に記された筆文字の詩をいつまでも飽きることなく見ていた事が思い出されます。

「ねがい」
  きれいな氣持ちでいよう
  花のようなきもちでいよう
  報いをもとめまい
  いちばん美しくなっていよう
  No.208(2010年9月1日)

 異常に暑かった夏の余韻を残し、秋の氣配が少しずつ感じられるようになりました。空の雲の形も秋を告げています。
ブロンズのサイン ところで、県南にある由利本荘市は、昨年6月メジャーデビューした、インストルメンタルバンド「BRONZE・道心」の活動拠点地です。日本海を臨む秋田の風景をオリジナルサウンドで表現し、一途に自分たちのサウンドにこだわり、数々の批判、中傷に耐えながらも10年間音楽活動をしてきました。
 そのバンドがアメリカ在住の水野久美さんという音楽プロデューサーに見い出され、7月13日に行われた世界的に有名なスイス・モントルージャズフェスティバルに、季節の花日本人グループとして唯一招待されました。リーダーの佐藤龍守さんは、「海外の人たちに自分たちのサウンドが通じるのか、不安に思っていたけれど、3,000人にも及ぶ観客からの熱い声援を受け、やはり音楽に国境はない」と痛感したそうです。特に電子琴をばちで叩く世界初の演奏が注目を浴びたそうで、秋田県知事からも支援を受けた今回の演奏が多くの国々の人を魅了したと聴き、うれしく思っています。
 代表的な曲「Cry in the Rain」を始め数曲はホームページで視聴出来ます。また、11月11日(木)秋田市文化会館大ホールにて18時30分から凱旋ライブが開催されます。「多くを語らず、多くの意味を伝えたい」というBRONZEサウンドを是非この機会に多くの方々に聴いて頂きたいと思います。尚、お問合せは、一乃穂本店加賀屋までお願い致します。

〈お知らせ〉一乃穂では、品質管理モニター3名様を募集致します。年3回商品をご試食いただき、ご意見・ご感想を聞かせていただきます。葉書にお名前・ご住所・電話番号・年齢・ご職業を明記の上9月末まで本店あてお送り下さい。応募者多数の場合は抽選し、ご本人に直接ご連絡致します。
  No.207(2010年8月1日)

 残暑お見舞い申し上げます。今年も県内各地で夏祭りが始まりました。代表的な「竿燈まつり」で始まり、フィナーレを飾るのは、8月28日に行われる大仙市の「大曲の花火」です。70万もの人が見物に訪れ、今年100周年を迎えます。特に、競技とは別に行われる大会提供花火は5分間に2,500発もの花火が打ち上げられ、見る人を魅了することでしょう。
 さて、全国で豪雨や土砂くずれによる自然災害が続いています。被災者の皆様にはこころよりお見舞い申し上げます。また、宮崎県の口蹄疫問題では、畜産農家の方々の心情は察するに余りあります。ここで、鹿児島市の中心繁華街「天文館」でそば屋を営んでいるご主人の小言集を紹介しましょう。

 朝はきげん良くしろ。 人には馬鹿にされていろ。
 人には腹を立てるな。 初心忘れるな。
 義理は欠かすな。 借りて使うな。
 恩は遠くから返せ。 不吉は言うべからず。
 人には貸してやれ。 子の言うことは八、九きくな。
 働いて儲けて使え。 泣きごとは言うな。
 ばくちは決して打つな。 人には施せ。
 拾わば届け、身につけるな。 年忌、法事はしろ。
 大事は覚悟しておけ。花 怪我と災いは恥と思え。
 自ら過信するな。 貧乏は苦にするな。
 大めしは食うな。 大酒は飲むな。
 戸締まりに氣をつけろ。 万事に氣を配れ。
 身丈で生活しろ。 水は絶やさぬようにしろ。
 親に心配かけるな。
 小商もの値切るな。
 人の苦労は助けてやれ。
 病と禍は口から。
 神仏はよく拝ませ。
 産前産後は大切にしろ。
 火は粗末にするな。
 悩むな考えろ。
 風吹に遠出するな。
 家事には精を出せ。
 年寄りはいたわれ。
 家内は笑って暮らせ。

心に響く小言はありましたか。
  No.206(2010年7月1日)

「夏が来れば思い出す、はるかな尾瀬、遠い空…」という歌の一節をご存知でしょうか?もう懐かしい歌になってしまったかも知れませんが、群馬県利根郡尾瀬沼のほとりにある長蔵小屋(ちょうぞうごや)には、初夏になると全国各地から自然愛好家達が集まります。
 明治3年、平野長蔵氏は群馬県のある村に生まれました。明治43年、現在の沼尻に「長蔵小屋」の前身となる山小屋を建築します。その後、尾瀬が国立公園に指定され、現在の長蔵小屋が完成します。尾瀬沼ダム化計画が持ち上がった時、長蔵氏は尾瀬を守るため反対運動を起こします。「自分は尾瀬の自然の中に生きているひとつの生物である」というのが主張でした。結局、尾瀬沼ダムは完成してしまいますが、自然と環境を守るという意味での反対運動は、その後の日本の自然保護について多くの教訓を残しました。長蔵氏の遺志は、2代目、3代目と受け継がれていますが、3代目の長靖(ちょうせい)氏は「ねじ伏せられて行く自然を目の当たりにする痛み」を訴え、ミニコミ誌「いわつばめ通信」を発刊後、36才の若さで遭難死してしまいます。
シラン そして、昭和46年の車道反対運動から40年の歳月が流れ、今、尾瀬は日本人の心身のやすらぎの場として遺され、愛されています。「自分の足で峠・山道・湿原を一歩一歩、心地よい汗をかきながら歩いて下さい。さわやかな笑顔の登山者と山小屋はこれからも歩み続けます。自然保護の原点、尾瀬と共に!」と、長靖氏の奥様の平野紀子さんが語っていました。

長蔵小屋
〒378-0411 群馬県利根郡片品村戸倉
Tel 0278-58-7443 Fax 58-7101
http://www3.ocn.ne.jp/~chozo
  No.205(2010年6月1日)

 日本には、自衛隊や米軍の基地空港も含め、100以上の空港があります。その中のいくつかの空港には韓国行の路線があり、秋田空港にも週3便就航しています。長年、搭乗率の低下に悩まされ数年前までは廃止の声もあった韓国便でしたが、昨年より韓国からの乗客が急増し、最近では搭乗率が80%を超えるようになりました。
 それは昨秋、韓国国内で放送され、平均視聴率30%以上、瞬間最高視聴率50%を記録した人氣テレビドラマ「IRIS・アイリス」の海外ロケ地に秋田県が選ばれた事が影響しています。このドラマは総制作費15億円という巨大なスケールで作られ、その出来栄えから「韓国で10年に一度の大作」と言われています。主演は、韓流スターとして日本でもファンの多いイ・ビョンホン、トキ草共演には人氣No1女優のキム・テヒ、監督は2006年アジア最優秀作品賞を受賞したキム・ギュテ監督、脚本は韓国で評価の高いキム・ヒョンジュンです。この脚本家は自分の名前を主人公の役名に使うなどドラマに対する思い入れが感じられます。
 ドラマは、南北に分断された国家の関係を危険なまでに鋭く描きながら、恋愛・友情・主人公の出生の秘密などを小氣味良いテンポで展開しています。第3話以降に主人公が恋人と一緒に秋田の冬を楽しむシーンやスリル満点の追撃シーンがあり、秋田の情景と共に映し出されています。秋田駅前の当店近くの居酒屋は二人がデートする場所として使われました。
 ドラマの人氣に比例してロケ地を訪れる観光客が増え、いろいろなイベントや情報交換が盛んに行われています。日本国内でのドラマの放映も始まりました。この機会を一過性のものとせず、観光立県としての秋田を大きくアピールするチャンスとしたいものです。
  No.204(2010年5月1日)

 毎年、ゴールデンウィークが明ける頃、花屋さんの店先は、赤いカーネーションで彩られます。ご存知のように5月の第2日曜日(今年は9日)は、お母さんに日頃の感謝を伝える「母の日」です。カーネーションの花言葉は、花の色によって異なり、赤は「愛を信じます」、白は「私の愛は生きています」、ピンクは「熱愛」を意味します。
 また、聖母マリアが十字架にかけられたキリストを見送った時に落としたhana涙が花になったという言い伝えから、「母性愛」の象徴とされてきました。まさに母の日にふさわしい花といえるでしょう。
 母親を讃えて祝うという行事は、はるか古代ギリシャ時代から始まったと言われています。
 さらに、カーネーションを贈るという習慣が生まれたのは、1908年、アメリカの教会でアンナ・ジャービスという女性が、亡くなった母親の命日に母の好きだった白いカーネーションを参列者に配り追悼したのが始まりです。
 そして、1914年に命日の5月10日にちなんで、5月の第2日曜日を「母の日」と制定し、国民の祝日としました。日本では、1949年頃に「母の日」が定着しました。
 さて、「母の日」の経済効果にはおよびませんが、6月の第3日曜日は「父の日」です。お父さんへの感謝の気持ちもお忘れなく。
  No.203(2010年4月1日)

 当地も少しずつ氣温が上がり、木々が芽吹き始め、遅い春の到来を感じる頃になりました。春は人の温かさを感じる季節でもあります。親しい仲間との別れや新しい人々との出会いが、人と人をつなぐ温かさを感じさせてくれます。
 そんな春にかかせないのが、日本の国花である桜です。桜は、別名「花王」といわれます。太平洋戦争では、最初の海軍特別攻撃隊に「桜花」という部隊名がつけられました。
 以前、鹿児島県の知覧町を訪れた事があります。知覧町は「薩摩の小京都」と言われ、石垣と生け垣が美しい武家屋敷と庭園が今も残っており、感銘を受けました。その庭園の先に「知覧特攻平和会館」がひっそりとあります。知覧基地の指令により沖縄戦特攻で散華した1,036名の遺書、日記、手紙、写真などを資料収集し、展示しています。秋田県出身者は9名おり、皆、若く18歳から20歳代の好青年ばかりでした。
 1942年6月、中部太平洋のミッドウェー海域で日本とアメリカの主力艦隊が激突し、日本が決定的な敗北を喫すると戦局は一変しました。カランコエしかし、敗戦濃厚でも新聞は、連日うその戦果を報道し続け、国民はそれを信じ、勝ち誇っていました。その結果、13万人の学徒出陣の壮行会後、若者が特攻隊員として集められました。ほとんどの隊員が到着してわずか4〜5日間を劣悪な半地下の三角兵舎で過ごし、出撃していきました。なかには、たった一夜の滞在で出撃した隊員もいたと言われています。国を守り、親、兄弟の為に尊い生命を純粋なまま捧げたのです。今頃、知覧の桜並木の桜はもう散っているでしょうが、今日の平和の中に暮らしている者にとって、彼らのことを考えると涙なくしては語られません。この季節、桜に対する思いは人それぞれ尽きないのではないでしょうか。
(参考文献「新編知覧特別攻撃隊」 高岡修編)
  No.202(2010年3月1日)

 鶴丸マークを尾翼につけて世界の空を爽快に飛んでいたJALが思いがけない事態になってしまいました。今から思えば、おなじみのマークがなくなってから、会社の様子が変わってしまったような氣がします。
 当店が創業2年目の頃、JALの機内食にしとぎ豆がきを採用して頂くために何度もセールに伺いました。そして秋田のお米の品質とこちらの熱意を担当者に認めてもらい、当地まで視察に来て頂きました。その結果、その年の秋、東京〜九州・沖縄便の乗客用に採用され16万個が配られました。反響は大きく、全国から注文が舞い込むようになりました。ですから、JALには大きな恩義があります。何とか再生していただき、ANA同様、日本の空を担ってもらいたいと願っております。花各社ともお菓子は勿論、新聞など機内サービスの廃止が進んでいますが、短時間の飛行であれば我々乗客もある程度は納得せざるを得ないのではないかと思います。
 こうした時期に、映画「沈まぬ太陽」が昨秋全国で上映されました。約30年前の御巣鷹山墜落事故を含む航空会社の人間模様が題材です。原作は、新聞記者の経験を持ち、常に社会への警鐘を鳴らす作品を発表し続けてきた山崎豊子さんです。自身が映像化を熱望し、「この作品の映画化を見るまでは決して死ぬことは出来ない」と言わしめたほどの一作です。上映時間は3時間22分。主演の渡辺謙さんはじめ豪華キャストでしめられています。監督は秋田市出身の若松節郎さんです。1月に若林さんの講演があり、この映画づくりの苦労さを聴きましたが、地元秋田で多くの方々に観てもらい、「うれしい」と語っていました。機会があれば是非ご覧下さい。
  No.201(2010年2月1日)

 平成7年1月17日午前5時46分、多くの人々の命を奪い、生活を一変させた阪神・淡路大震災。あれから15年がたちました。死者6,434人、行方不明3人、重軽傷者4万3,792人、全壊家屋10万4,906棟、半壊・一部損壊を含めると63万9,686棟もの被害になりました。ことしも神戸はじめ全国で追悼式が行われました。
 今回の追悼式でのご遺族代表の方の言葉は感動的なものでした。「15年前、わたくしの家も全壊で近所の家も軒並みつぶれていて近くでは火の手も上がり、取りあえず近くの公園に避難しました。金魚草何が起こったのか理解できなくて、そこへ向かう途中見る影もない家並みを見て、悪い夢を見ているんじゃないかと思いました。それ程、信じられない出来事でした。少し落ち着いてから、大事なものだけでも取りに行こうと思い、その帰りに通り道の家の人に呼び止められました。何かと思ったら「靴、履いて行き!」と言われました。わたしはその時は無我夢中で、はだしだったのです。みんな大変な時なのに、見ず知らずのわたしに声を掛けてくれたのです。あの時はみんなが家族みたいな感じでした。震災は多くの大切な生命、大切なものを奪っていきました。だけど人間にとって大切なこともたくさん教えてくれました。」と健氣にも語っていました。
 また、当店のお客様で秋田県出身で神戸在住の谷口トク子さんからは神戸新聞や大震災に関する資料をいただきました。地方では知られていない記事が多く、大変参考になりました。谷口さんは、「住宅や商店、道路など外観はほとんど回復したように見えますが、そこに住んでいた人達の人間関係や、地域のコミュニケーションは、15年たった今も失われたままという所が多く残っています。」と地元紙に投稿されています。体験者の方々の心情を思い、決して風化させてはならないと思いました。(参考:神戸新聞・秋田県北鹿(ほくろく)新聞より)
  No.200(2010年1月1日)

 新年明けましておめでとうございます。
 本年も皆様にとって素晴しい年になるよう祈念しております。
 さて、昨年11月12日に天皇陛下ご即位20周年記念式典が執り行われ、皇居前広場で、国民祭典が挙行されました。天皇陛下は穏やかな笑顔を終始絶やさず、「少し冷え込み、皆さん寒くなかったでしょうか」とごあいさつの中で集まった人々を氣遣っていらっしゃいました。また、「日本は高齢化の進展と厳しい経済状況の中にあり、色々な課題に直面しています。皆様も様々な心配や苦労があることと察します。しかし、このような中で、人が互いに絆を強くし、叡智を結集し、相携えて努力することにより、忍耐強く困難を克服していけるよう切に願っています」と述べられました。さらに最後に「本当に楽しいひとときでした。どうもありがとう」と感謝のお言葉をおっしゃいました。常に国民を想う天皇陛下のお優しいお気持に触れられた式典でした。新年が誰にとっても希望の見える年であればと切望します。
 ごあいさつの前に即位20周年を祝う組曲「太陽の国」の中からEXILE(エグザイル)が歌った「太陽の花」の歌詞を紹介します。

「太陽の花」 秋元 康:作詞 岩代太朗:作曲

この道を歩きながら 名も知れぬ花に見とれ
立ち止まる私でありたい

この道を歩きながら 移り行く空の色を
見逃さぬ私でありたい…
幸せは周りにあふれている
幸せは今いる場所で氣づくもの

はな太陽は変わる事なく輝いて そよ風に微笑みながら
一人ひとりを 穏やかに見守っている

この道を振り返り 誰かの頬の涙を
思い出す私でありたい

悲しみも時には巡るけれど
悲しみもそのうち晴れる通り雨

太陽は変わる事なく輝いて 青い空
両手を広げ そのぬくもりを 
平等に与えてくれる 光の花 降り注ぐ
生まれた国 いつまでも忘れない

太陽は変わる事なく輝いて そよ風に微笑みながら
一人ひとりを 穏やかに見守っている

太陽は変わる事なく輝いて 美しい夕暮れの時
幸せを教えてくれる




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